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古戦場めぐり「小田原征伐・忍城の戦い(埼玉県行田市)」

古戦場めぐり「小田原征伐忍城の戦い(埼玉県行田市)」

◎『小田原征伐忍城の戦い』

忍城の戦い」は、成田氏の本拠である武蔵国忍城(埼玉県行田市)を巡っての戦いです。豊臣秀吉の「小田原征伐」に伴い発生し、天正18年(1590)6月16日から7月16日にかけて行われました。

成田氏代々の居城であった忍城は、関東七名城に数えられる程の城でした。豊臣秀吉は、四国征伐九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け、今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けました。天正18年(1590)、秀吉は徳川家康を介して上洛を促しますが、北条氏政は拒否し「小田原征伐」が決定しました。この報を聞いて、成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に詰め、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになりました。豊臣軍は、北条方の支城を次々と落として小田原へ向け進軍し、その途上にある忍城も攻略しようとしました。

天正18年(1590)6月17日、石田三成は丸墓山古墳(埼玉古墳群)に1500の兵で本陣を構え、忍城を包囲しましたが、忍城は沼や河川を堀として有効的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねました。忍城の士卒・兵・農民ら3000は、城内に立て籠ってよく防戦しました。しかし、籠城側ではこの包囲が始まってすぐに成田泰季が病死し、代わりに成田長親が指揮を任されました。豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付きました。しかしこれには異説があり、実際は秀吉が指示したともいいます。こうして三成は、近辺の農民などに米や金銭を与えて突貫工事を行い、5日という短期間で全長28?にもなる「石田堤」と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まりました。ところが大方の予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから「忍の浮き城」と呼ばれました。

6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐために下忍口守備の本庄泰展は、配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせました。二人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊します。これにより、大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡します。水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になりました。6月下旬、三成が城攻めに苦戦していると聞いて、浅野長政真田昌幸・信繁父子らが、6000の兵で援軍にやってきました。援軍が到着してすぐに、城を守っていたはずの成田近江守と市田太郎が、長政に内通の密使を遣わし、「ひそかに城門を開いて城内に兵を引き入れる」と申し出てきましたが、功を長政に奪われることを恐れた三成は、長政に「もっと確実な内通の約束があるので、貴殿は行田口へ向かってくれ」といって長政を騙し、この申し出を拒否しました。7月1日、何も知らない長政は、行田口に近づき、驚いた城兵に猛攻を加えられ敗走しました。

7月5日、一気に城を落とすため総攻撃が計画されました。下忍口から石田三成、長野口から浅野長政、佐間口から大谷吉継が攻撃を仕掛ける予定でしたが、焦った三成は抜け駆けし、それを知った長政は激怒し、長束正家隊と共に夜営していた成田方を蹴散らして、行田口に殺到しました。行田口は今村佐渡守と島田出羽守が守備しており、これをよく防ぎました。行田口が猛攻を受けていることを知った正木丹波守は、浅野・長束隊の背後に回り込み攻撃、600近い損害を出して、長政らは敗走しました。佐間口を攻撃していた吉継も苦戦し、前に進めませんでした。そこへ正木丹波守隊が突撃し、大谷隊は撤退しました。抜け駆けした下忍口の石田三成は、城壁を背に背水の陣を敷いた守将・酒巻靱負に死者300、負傷者800という大損害を与えられ大敗し、撤退を余儀なくされました。こうして、一丸となった成田軍を前に忍城総攻撃は失敗しました。

しかしこの日、小田原城が降伏・開城し、後北条氏は滅亡します。他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていました。小田原落城に伴い、秀吉に降伏した氏長は使者を忍城に送り、北条氏が滅亡したことを告げました。これを聞いて長親らは会議を開き、開城することで意見がまとまるかのように見えましたが、三成ら攻城軍が提示した条件の内、「城から運び出せるのは馬一頭に載せられる分だけである」という内容に、城兵や家臣らは反発し、再び篭城する構えを取りました。この報を受けて秀吉は、「彼らの言うことはもっともだ。自由にさせてやれ」といい、これによって7月16日、忍城は開城しました。

○「忍城跡」(行田市本丸)

映画「のぼうの城」の舞台となった「忍城」(おしじょう)は、古く文明年間(1469〜86年)に山内上杉氏配下の豪族・成田親泰によって築城されたと伝えられています。成田氏は、それまで住んでいた成田館(埼玉県熊谷市)からこの地に移り住みました。忍城は、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と、自然堤防を生かした構造となっています。戦国期の典型的な水城で、その結果として、低湿地帯を水田に変えることに成功し、行田(ぎょうだ)という地名が生まれたといいます。要害堅固な城であったことから、戦国時代には関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つになっています。

天正18年(1590)、豊臣秀吉小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から、浮き城または亀城と称されました。この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、明治4年の廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれましたが、明治6年に、なんと競売されて解体されてしまったそうです。また昭和63年、本丸跡には天守の代用である阿部氏が築いた御三階櫓(現在は資料館)が再建され、現在、本丸跡は、小中学校、市役所、行田市郷土博物館と合わせて広さ2.5haの区画が整備されています。行田市郷土博物館から入り、階段で4階まで上がることができます。水堀や沼地の一部は水城公園として整備されています。